傷ついたところをいたわってもらえるありがたさ
焼き場に立つ少年 ローマ教皇の態度と言葉を聴いて、日本人にとって「広島・長崎への原爆投下」は心の深い場所で傷ついたことであり、ずっとそれらを見ないようにしていたのだということに改めて気付かされた。 38年ぶりに、ローマカソリック教会の頭首であるローマ教皇が来日、長崎と広島、そして東京に訪れ、原爆の戦争使用は「犯罪」であることを明言、平和を訴えた。 アメリカに住んでいるとわかるが、WWIIでの米国の日本への原爆使用は、暴走する日本を止めるため、戦争を終わらせるために正義として用いた、との論調である。そして、日本がパールハーバーで3000人の米兵を殺した被害のことを「とてもひどいこと」と常にアアピールする。 日本では、戦後、広島・長崎への原爆投下について戦後国民は深く学ばず興味を持たせず、逆に日本が悪かったから投下されてたのだという雰囲気さえ感じるときがある。 確かに、日本の指導者たちの誤った戦略、先導が戦争を長引かせ、犠牲を大きく増やしたことは事実なのだろう。 しかし20万人の罪のない日本市民が、原爆開発の「実験台」として殺されたことについては、日本人は、少なくとも私は、実感として大きな傷になっていることを認識していない、しないようにしているのかもしれない。そのことに気が付いた。 ところがローマ教皇が、長崎と広島の慰霊碑の前で真摯にたたずみ祈り、平和のメッセージを述べているのを見て気がついた - そうだ、私たちは原爆を投下されたことで心に大きな傷をもっているのだ。 それを見て見ぬふりをするのは、「日本が悪い」という論調に私たちが飲み込まれているからだ。それは当時国際社会で調和を見出し、戦争に突入したことから言われることだ。しかし、だからといって罪のない市民が何十万人も殺された「戦争犯罪」は変わらない。それへの反発、非難を避けるために、勝者は被害者が悪いと世間的に広め、被害者の心に自責の念を埋め込むという方法はうまい手だ。 もともと周りの眼を気にしやすく自責の念の強い日本人は、「悪いから攻撃されて当然」ということをお互いに刷り込み続けてきたし、今も続けているのかもしれない。 今年の初めだったか、ローマ教皇が原爆投下後に撮影された亡くなった弟を