本日で10年目:3月11日14:46 東日本大震災の犠牲者、被災者、復興に尽力されている人々へ
10年前の今日、3月11日(金)14:46
50人近い認知症高齢者を前に音楽療法のセッションをしているとき、
突然東日本大震災が起きた。
ほとんどが車椅子に乗った認知症の進んだ高齢者、
老健の3階ロビーでひとりでセッションをしていた私は、
もしこれが関東大震災で
3階(にいた)の床が抜けて彼らが落ちたら、どうやって助ければよいのかと
緊張の中で考えていた。
川崎の新しい鉄筋コンクリートのビルだが、
大きくユサユサと揺れた。
5分くらい揺れていたのではないかと感じたが、
3分弱(160秒)くらいらしい。
その後、ロビーのテレビが津波が発生したという沿岸沿いの赤いマークを繰り返し流していた。
看護師さんたちが対応に追われていたのを覚えている。
私はできることもなく、そのまま帰宅しようとしたが、
携帯のニュースで、「~沖に死者が200人ほど…」の記事
は?
たぶん何かの間違いだろうと思ってあまり気にせず駅に着くと、電車が動いていない。少し遠い駅に行っても動く様子はなく。
どうしても帰れないことがわかり、駅前で配られていたビラに示されている近所の避難所の小学校まで行き、
生まれて初めて避難所で夜を明かした。
ラジオが中央に置かれ、各電鉄の復興情報が大きな音で流されていた。
0時くらいに東急線や小田急線が復旧すると続々と出ていく人たちがいた。
そういえば、次の日もセッションがあることを確認したので、避難所から行った方が早いと思い、そのまま貰った毛布で夜を明かしたなあ。
老健に大きな被害もなく、ケガをした人たちもいなかった。
その後、1か月ほど、津波の映像を時々見ていたが、
いつになくなんだか気分が落ち込んできたことに気が付いた。
影響を受けていると思い、それから観るのを止めた。
一度、宮城県亘理市に、所属しているグループ皆でフリーマーケットのお手伝いボランティアに行ったことがある。
ある母娘さんとお話しをした。
うちはいいのよ、家族皆が無事だから。でも14匹のわんこや車数台は全部流されちゃった。後から掃除機が、ずっと西の方で見つかったの。
明るく話していた。
海岸沿いを車で見に行くと、柱の礎は残っているが、家ごとごっそりない風景が広がっていた。
5年間くらい、仙台や福島からの農作物、手工芸品を月一度東京で売るボランティアをしていたっけ。
昨日も、まだ見つからない姉のようだったいとこを想い続ける女性のインタビューをニュースで観た。
心から、まだ見つからない人々、亡くなられた人々に哀悼の意を捧げます。
また、復興に全力を尽くされている関係者の皆さまに感謝申し上げます。
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