第75回終戦記念日

 

※当時の白黒の写真に色をつけ、実感を持って当時の大変さをつたえることをミッションとした
プロジェクトです。



2010年に米国留学から帰国して、高齢者施設で音楽療法士の仕事に携われたことは

本当に意味のあることだった


就職希望した病院は面接で落ちたのだが、そのおかげで高齢者と深くかかわりを持てたのだ


何が良かったのかというと、彼らが過ごした青春時代、それは戦時中であり戦後になるが、
について調べ、当時流行った流行歌を練習し、一緒に歌い、その歌詞の意味を彼らの経験とともに噛み締めることたできたこと。


日本の人たちが、どれだけ大変な思いをして戦争を潜り抜けてきたのかを実感できたこと。


あの4年間の老健での勤務がなければ、
私はいまだに、戦争時代を知ろうともしない、どちらかといえば話を避けてしまうような、 未成熟な大人でいたと思う。


戦争で戦って帰還できた人々、その間家を守って彼らが帰ってくるのを待っていた人々,
そして生きては帰って来られなかった多くの人々

涙なくしては語れない


今だに戦場へ赴いて戦死した父の声を覚えていると、当時4,5歳だったおばあちゃん


佐賀県で、長崎に落ちた原爆の光を見たというおじいちゃん


南洋の島でモールス信号を打っていた戦死した兄のことを涙ながらに語るおじいちゃん


学徒動員で、クラスの半分の男子が戦場に赴き、戦死した、
その中に兄がいたと泣きながら話すおばあちゃん


東京裁判で、捕虜にきんぴらを食べさせたと戦犯になった人がいたと、歌いたい歌の楽譜を入れた封筒に書いてくれたおじいちゃん
(西洋人は植物の根を食べる習慣がないため、虐待と捉えられた)


戦争が終わって南の島に残され、皆で毎日『椰子の実』を歌いながら日本からの迎えの船を待っていたという、おじいちゃん


婚約者が8月15日に特攻隊でつっこむ予定だったが、終戦となり結婚することができたと言うおばあちゃん


兵隊として校庭での訓練で、さんざん叩かれた、日本は徹底的に負けたことが良かったのだ、戦争を止められたのだと苦々しく笑ったおじいちゃん


その他、細かい日常をいろいろと語ってくれた高齢者の皆さま


今の日本の繁栄は、当時の人々の命と血と汗と涙とに支えられているのだ


あまりよく知らない若い人たちなどに、上に紹介した当時のカラー写真などを見たりして
知る努力をしてみてほしいと思う


今の平和は、簡単に手に入ったものではなく、ずっと続くものでもない






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